【靴磨きの少年と株式市場の熱狂】ジョセフ・P・ケネディの一生 第1回

2019年11月11日

スポンサーリンク

時は1929年。アメリカの株式市場は「永遠の繁栄」とも呼ばれた空前の好景気を背景に活況に沸いていました。1920年末に71.95ドルだったNYダウは、1928年末には300ドルとおよそ4倍にまで急騰していきます。

この急騰劇は、普段は株式取引に関心がない人たちまで株式市場へと誘い込みました。会社の事務員、老女、零細企業の経営者…

ニューヨーク市マンハッタン区パイン通り70号で靴磨きをしていた少年、パット・ボローニャもその1人でした。

靴磨きで蓄財をしていた彼は、靴磨きの仕事をしていく中で株式市場関係者から内部情報を仕入れてその情報を基にし、自分の資産のうち相当な額を株式市場に投じていたのでした。

そんな中、ある男がパット・ボローニャの靴磨きを利用しました。パット・ボローニャはいつものように株式市場で起こっていることについて、その男と話をします。

その時のことについて、男は後にこう語っています。

靴磨きの小僧が株式市場で起きていることに俺と同じぐらい精通しているときがきたら・・・その時は俺が足を洗うときさ。最高値で売ろうなんて考えて頑張るのは馬鹿だけだ。

 

男は靴磨きの少年パット・ボローニャとの会話をきっかけに、株式市場が過熱していると判断。持ち株を全て売却し、空売りに転じて1929年の株価暴落時に大儲けするのでした。

その男の名はジョセフ・パトリック・ケネディ。後に大統領となるジョン・F・ケネディの父親です。

 

これから全4回にわたり、激動の時代を狡猾に生き抜き富と権力を築き上げたジョセフ・P・ケネディの一生について記事にしていきたいと思います。

なおこの4回の記事は「ケネディ家の悪夢 3世代の秘密とスキャンダル」「汝の父の罪 呪われたケネディ王朝」を参考文献として作成しました。

富と権力のために生きたジョセフ・P・ケネディの一生

ジョセフ・P・ケネディ(以下ジョー)は1888年9月6日、アメリカのボストンにて生まれました。父親はアイルランドから移住してきたカトリック教徒であり、アメリカに渡ってから酒場を経営して財を成し、ジョーが生まれたころにはマサチューセッツ州で下院議員となっていました。

ジョーの父親は当選のためなら手段をいとわず、買収も辞しませんでした。この父親の目的のためなら手段をいとわないという性格は、息子にも引き継がれることとなります。

ジョーは一流校の1つであるボストン・ラテンスクールを卒業後、ハーバード大学に入学、1912年に卒業します。

このハーバード大学在学中に彼の人となりを現すエピソードがあります。

ジョーはハーバード大学時代は野球部に入っていたものの4年間試合に出たことはありませんでした。しかし4年生時の最終戦の最終回、突如一塁手として出場。欲しがっていた最終試合に出場した選手がもらえる紋章とウィニングボールをジョーは手に入れました。

この時ジョーを試合に出すように監督に依頼してくれたのがチームのキャプテン、チャールズ・B・マクラフリンです。彼はジョーを試合に出すように依頼した理由について、後に告白しました。

それによると、マクラフリンは大学卒業後に映画館を開こうとしていたのですが、それを知ったジョーは試合の数日前にジョーの父親の選挙区運動員を介し、ジョーを試合に出せば映画館の営業許可証を約束するとしたものの、試合に出さない場合の不利益を示唆して裏で圧力をかけていたのでした。

ジョーのクラスメートもこう語ります。

ジョーは頭がよく、ずうずうしいほど積極的で、政治的影響力の利用の仕方を心得ていた。ほしいものを手に入れるためならどんなことでもやる男だった

 

この時すでに、自分が欲しいものを手に入れるためには金、権力、脅しを使ってでも手に入れるという彼の人格は出来上がっていたのでした。

大学卒業後、金融業界へ

ハーバード大学卒業後、父親はジョーのために州銀行検査官の務め先を用意しました。1912年より、東部マサチューセッツ州を回って銀行の記録書類の検査の仕事をします。

この間にジョーは父親が少数株主として名を連ねていたコロンビア・トラスト銀行が乗っ取りの危機にさらされた際に、支援と資金を集めて買収から救うことに成功します。ちなみにこの際に親族から金を借りたものの、ジョーは借りたお金を親族に全く返済しませんでした。

1913年に銀行検査官の職を辞して翌年にはコロンビア・トラスト銀行の役員たちに対し、自分が銀行の頭取になりたいと申し出ます。役員たちの投票にかけた結果、ジョーは銀行の頭取という地位を手に入れることに成功します。25歳という若さで当時のマサチューセッツ州最年少の頭取となるのでした。

そして1914年、ジョーはボストン市長を務めていたジョン・F・フィッツジェラルドの娘、ローズ・フィッツジェラルド(以下ローズ)と結婚。

1915年には第1子であるジョゼフ・P・ケネディ・ジュニア(通称ジョー・ジュニア)が誕生。そして1917年、のちのアメリカ合衆国の大統領となるジョン・F・ケネディ(ジャック)が誕生しました。

第35代大統領となるジャックことジョン・フィッツジェラルド・ケネディ

ちょうどそのころ、第一次世界大戦が勃発。徴兵から逃れるため、妻のローズの父親のつてでベツレヘム・スチール社の造船所で支配人補佐として働くこととなったジョー。しかし間もなくジョーと労働組合が衝突、造船所はマヒ状態に陥ります。

この事態を収拾するために乗り出したのが、後に大統領となる当時海軍次官補であったフランクリン・ルーズベルトでした。後に2人の人生は再び交わることとなります。

降格処分をうけ、造船所から去ることになったジョー。そして再び妻ローズの父親のつてで、証券会社であるガレン・ストーン・オブ・ヘイデン社で働くことになります。ここでジョーは相場師としてのキャリアを積むことになるのです。

続く

にほんブログ村 株ブログ 米国株へにほんブログ村 株ブログ 株 中長期投資へ
にほんブログ村
↑ 応援のクリックをして頂けると大変うれしいです(^^)

スポンサーリンク