【初代SEC委員長と英国大使就任】ジョセフ・P・ケネディの一生 第3回

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お疲れ様です、ローンウルフです。前回の記事の続きです。

ハリウッドとウォール街で成功を収めたジョーことジョセフ・P・ケネディが次に目を付けたのは政治の世界でした。

ジョーは知人を介し、当時大統領候補として名前が挙がっていたフランクリン・ルーズベルトと昼食をともにします。選挙資金集めのためにジョーを利用しようとしたルーズベルト、政治の世界に足を踏み入れようとしたジョー。2人の利害は一致します。

先例を破って第4期まで大統領職に就いたフランクリン・ルーズベルト

ジョーはルーズベルトのために当時の金で36万ドルもの献金を行うだけでなく、他の人々からの資金集めも担いました。また民主党全国委員会にも5万ドルの貸し付けを行い、選挙運動予算委員の地位を手に入れます。

資金面に限らずジョーはルーズベルト支持のために奔走をします。民主党大会でのルーズベルトの勝ちを確実にするため、新聞を33紙所有していたウイリアム・ランドルフ・ハーストを説得し、ルーズベルト支持を取り付けることに成功します。また大統領選本選においてもルーズベルトの選挙遊説に同行、全国各地を行脚します。

そして投票日、ルーズベルトは共和党のフーヴァーに対し472票対59票と圧倒的な差をつけて大統領に就任しました。

ルーズベルト大統領の息子を利用して任官を受けようとしたジョー

大統領選後、ジョー以外のほとんどの顧問たちは新政府の役職に就きました。ですがジョーには一向に声がかかりません。ルーズベルトはジョーのウォール街での悪名を耳にしていたため、任官をためらっていたのでした。

そんなルーズベルトに対し、ジョーは揺さぶりをかけます。保険の代理店を営んでいたルーズベルトの息子のジェームズ・ルーズベルトを、自分の会社や取引先の会社の保険をジェームズに扱わせたり、酒の売買を通じて自らに取り込み始めます。

様々な問題を起こし、父親の悩みの種となった息子のジェームズ・ルーズベルト

大統領補佐官のトミー・コーコランに「世間知らずでお人好し」と称されたジェームズ・ルーズベルトは、ジョーの思惑にまんまとはまり、父親であるフランクリン・ルーズベルトに下記のような手紙を送りました。

(選挙がすめば)もう用がないという理由で棚上げを食らったと感じている人が一名、マサチューセッツ州の外にいます。

ジョーは、選挙の間きわめて役に立つ男でした。請求書がきて支払いが必要になると、いつも彼がきてくれました。私は今日なお民主党全国委員会はジョーに10万ドルの借金をしたままだと思います。

 

そんな中、ルーズベルトは顧問の1人からジョーを新設するSEC(証券取引委員会)の委員長に指名してはどうかという進言を受けます。

ジョーがSECの委員長候補になっていることがマスコミに漏れると、批判が殺到します。SECが取り締まろうとしていたのは、まさしくジョーのようなインサイダー取引や株価つり上げをして利益を得ている連中だったからです。

それでもそうした批判に対し、ルーズベルトは「泥棒を捕らえるには泥棒が必要だ」と側近に語り、ジョーをSECの初代委員長に指名します。ルーズベルトは次の大統領選を見込み、資金を提供してくれるジョーを手放したくはなかったのです。

SEC委員長として辣腕を発揮

かくして1934年、ジョーはSECの初代委員長に就任します。ジョーは大方の予想に反し、その力量を発揮します。

ジョーはかつての仲間に憎まれることなど気にせず、法律を次々と執行していきます。ジョーはSECの弁護士にこう語りました。

連中の口をこじ開け、ペンチを口の中に突っ込み、歯に被せた金をひっぺがす

 

ジョーはSECが自らと自らの息子に名声をもたらす手段になるはずだと考えます。彼にはSEC委員長のさらに先を見据えていました。大統領職をもその視野に入れていたのです。

ジョーは翌年の1935年にSEC委員長に再任されるも、その再任の2か月後にはSEC委員長を辞任します。

しかし再選を目指すルーズベルトは、SECでの功績で評判の上がっていたジョーを自らの陣営に引きとどめようとします。ジョーに実業界を結集させるような本を書いてくれないかとジョーに持ち掛けます。

こうしてジョーは「私はルーズベルトを支持する」という著書を出版します。しかしこの本の大半はゴーストライターに書かせたものでした。

こうしたジョーの助けもあってか、1936年ルーズベルトは大統領に再選します。ジョーは海事委員会の委員長を短い期間務めたのち、英国大使の任官を希望。

ジョーのお金がいまだ必要であったルーズベルトはこれを承諾します。しかしジョーを危険視していたルーズベルトは、財務長官にこのように述べます。

ジョーを毎時間監視するように手は打っておいた。やつが口を開いて私の批判でもしようものならその場でクビにしてやるさ

アイルランド系アメリカ人として初めてのイギリス大使に就任

かくして1938年、ジョーはイギリス大使に就任します。イギリス大使にアイルランド系アメリカ人が就任するのはこれが初めてであり、ジョーはこれを生涯の誇りとしました。

SECにてその能力を発揮したジョーでしたが、国際情勢を判断する能力は乏しいものでした。ヒトラー率いるナチスドイツの脅威を見誤り、ナチスに対して宥和政策をとるようイギリス首相のチェンバレンに働きかけます。

またジョー自身ユダヤ人に対して差別的な意識を持っていました。ドイツの駐英大使に対し、ジョーはこう述べます。

われわれにとってきわめて有害なのは、ユダヤ人排斥願望より、むしろ、そのことを喧しく騒ぎ立てる騒々しさなのだ

 

1939年、3月15日にドイツはチェコスロバキアに侵攻します。そんなさなかでもジョーは自らの欲望を満たすための行動を起こします。

チェコスロバキアの株式を空売りし、当時の金で50万ドルとも言われる利益を得ました。また映画スターや自分の娘と同じぐらいの年齢の女性と性的関係を結んだのです。

そんな中でナチスドイツに全面的な対決姿勢を示したチャーチルが英首相に就任。チャーチルはジョーのことを宥和政策の雄とみていたため、信用していませんでした。

「我々は絶対に降伏しない」と議会で述べたチャーチル

いまだにナチスドイツに対し宥和的な主張を繰り返すジョーは次第に孤立し始めます。またイギリスの対決姿勢に協力的なルーズベルトに対して、こう息まいているのをスピーチライターであるハービー・クレマーは聞きました。

合衆国に帰って、ホワイトハウスにいるあの「ろくでなし野郎」がアメリカ人の息子たちを戦争に送って殺そうとしているとアメリカ国民に言ってやる

 

ジョーはルーズベルトに帰国願を出し、1940年10月にイギリスを出発し、アメリカに帰国。側近からジョーの批判を聞かされていたルーズベルトは、それでもジョーをホワイトハウスに呼び出し、自らの選挙戦に協力するよう呼びかけました。

こうしてルーズベルトは1940年11月5日、3期目の当選を果たします。その直後の11月8日、ジョーは新聞社からインタビューを受けます。とここで、オフレコであったはずの部分の発言について「ボストン・グローブ」紙に掲載されてしてしまいます。

それは英国大使でありながら英国の民主主義の終わりを語り、ルーズベルト夫人を批判する内容のものでした。

詳しく話を聞くために、ジョーを自宅に招き入れたルーズベルト。そこでどのような会話がなされたかはわかっていません。

しかしルーズベルト夫人のエリノアによると、ジョーと話し始めた10分後にルーズベルトはエリノア夫人に向かってこう叫びました。

金輪際あのろくでなしの顔を見たくない。辞表を書かせて、ここから追い出せ!

 

こうしてジョーは英国大使を辞任するだけでなく、前述の記事によって大統領を目指していた自身の政治生命は断たれてしまいます。そしてその政治的な野望を、自分の息子たちに託すことになるのです。

続く

参考文献
ケネディ家の悪夢 3世代の秘密とスキャンダル
汝の父の罪 呪われたケネディ王朝

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